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收視率再創新低,回顧紅白歌會興衰史

作者:滬江日語

2021年大みそか放送のNHK紅白歌合戦の視聴率が低迷している。80年代の昔から紅白の視聴率低迷は何かと話題にのぼるようになったが時代の流れには抗えないということか。

2021年除夕夜(12月31日)播出的NHK紅白歌會收視低迷。紅白歌會收視率持續走低,自上世紀80年代就已經成為了話題,但這也是順應時代發展潮流的必然結果。

收視率再創新低,回顧紅白歌會興衰史

黎明期の紅白 最初はラジオ番組として産聲

黎明期的紅白 最初以廣播形式播放

紅白歌合戦が始まったのは1951(昭和26)年。第二次世界大戦の終結から約6年後ということになる。ただしこの時はテレビジョン放送ではなくお正月のラジオ番組だった。テレビ番組としてのスタートは1953(昭和28)年の第4回からで、放送日も大みそかとなった。會場は日劇(日本劇場)だった。

首屆紅白歌會播放于1951年(昭和26年)。距離第二次世界大戰結束剛剛過去6年左右。不過,此時的紅白歌會并不是一檔電視節目,而是新年廣播節目。直到1954年(昭和28年)第4屆紅白歌會才正式登上熒幕,并于除夕夜播出。會場設在日本劇場。

收視率再創新低,回顧紅白歌會興衰史

その後、紅白は國民的番組として着々と回を重ねていく。1954(昭和29)年の第5回には美空ひばりや春日八郎が初出場。美空はやはり初出場の雪村いづみ、2度目の出場の江利チエミとの三人娘が話題となった。翌1955(昭和30)年の大みそかには民放(ラジオ東京テレビ=TBSの前身)が負けじと同時間帯に男性軍・女性軍の男女対抗形式とした歌番組「オールスター歌合戦」を生放送するなど、テレビの世界自體がどんどん盛り上がっていく。1956(昭和31)年には紅白の出場歌手が50組となり、最初の黃金時代が到來した。

此後,紅白歌會作為國民節目一直長盛不衰。在1954年(昭和29年)第5屆紅白歌會上,美空雲雀和春日八郎首次亮相。美空雲雀與首次登上紅白的雪村泉、第二次登場的江利智惠美合成“三人娘,紅極一時。1955年(昭和30年)的除夕夜,民放電視台(TBS前身即東京廣播電視台)在同一時段直播了一檔名為“All Star 歌會”的音樂節目。1956年(昭和31年),參與紅白歌會的歌手已達50組,節目迎來了第一個黃金期。

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レコード大賞と共存共栄 テレビ黃金時代の紅白

與唱片大賞共存共榮 電視黃金時代的紅白

1960年代から70年代にかけては高度成長の勢いとシンクロするようにテレビが一家に一台普及していきカラー放送もスタート、テレビ番組が完全に芸能の主役にのぼりつめた。大みそかの紅白も、まさに一年間の歌謡界の総決算といえる大イベントとして定着した。この時代に少年期を過ごした筆者も大みそかの一家団欒のメインイベントとしての紅白の存在の大きさを體感してきた一人だが、この時代は今ほど娯楽に多様性もなく老若男女を問わずその年のヒット曲を共通して知っていた。子どもはじめ若い世代が応援するアイドル歌手、親や親以上の世代が応援するベテラン歌手や演歌歌手、そして誰もが知るその年のヒット曲が紅白を構成していた。

從上世紀60年代到70年代,經濟高速發展,電視走進了千家萬戶,彩色節目開始出現,電視完全占據了大衆娛樂的主導地位。除夕夜的紅白歌會更是成為每年年末的固定節目,被視為歌謠界的年度盛會。那時還在讀書的我(筆者)真真切切地經曆過在除夕夜一家人聚在一起收看紅白歌會,在那個年代,娛樂活動遠遠不及今天這樣多樣化,那些年度金曲,男女老少全都耳熟能詳。孩子和年輕人追捧的偶像歌手,父母和老一輩人喜愛的老牌歌手以及演歌歌手,再加上人人皆知的年度熱曲構成了紅白歌會。

そして日本の芸能界、歌謡曲といえば、もう一つ落とせないのが1959年に始まった日本レコード大賞だ。最初のうちはそれほど注目を受けなかったが、70年代に入ると紅白と並ぶ大みそかの國民的番組となった。いわば共存共栄の関係にあり、レコード大賞に出演した歌手が番組終了後に大急ぎで紅白の會場へ向かう様は年末の風物詩だった。

說道日本演藝界和歌曲,從1959年開始舉辦的日本唱片大賞絕對是一個不容忽視的存在。起初,唱片大賞并沒有受到過多的關注,在從70年代開始,它與紅白歌會并行成為除夕夜的國民節目。從某種程度來講,這兩檔節目是共存共榮的,受邀唱片大賞的歌手在節目結束後急忙趕往紅白會場,這已經成為了别樣的年末傳統。

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潮目の変わったバブル以降 紅白の迷走始まる

泡沫經濟之後潮流轉向 紅白陷入困局

70年代の終盤から80年代にかけての日本は経済発展の結果物質的にはある程度満たされたため、人々の関心は徐々に心の豊かさやゆとりある生活を求める方向へシフトしていく。

70年代末到80年代,日本經濟得到發展,人們的物質需求得到了更高的滿足,開始有了精神追求以及對高品質生活的向往。

この80年代には日本はバブルへと向かっていくが、娯楽の好みも大みそかの過ごし方も“個人化”が進んだ。大みそかに家族みんながテレビを前に勢揃いして料理をつつきながら一年の思いを語らい同じ番組を観る、という「絵」はまさに絵に描いた餅になっていった。好景気と反比例するかのように日本レコード大賞への関心は低下、歩調を合わせるように紅白も次第に迷走を始める。

80年代,日本出現泡沫經濟,娛樂偏好和除夕夜的歡度方式逐漸“個性化”。除夕夜全家人圍在電視機前,邊吃邊看紅白歌會,分享過去一年的點滴,這樣的畫面已經成為時代的烙印。一方面經濟景氣,而另一方面人們對唱片大賞的關注熱度不再,與此同時紅白歌會也開始陷入困局。

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昭和から平成へと移り変わった90年代には年末の賞レースから紅白へという流れは求心力を失い、逆に賞レースや権威的なものを意識せずに音楽活動をするアーティストがどんどん増えていった。ミュージシャン系のアーティストは紅白に出場するより辭退するほうがイメージに合っている、という時代に突入した。“歌謡曲”は若い世代の間では半ば死語となりJ-POPが取って代わる。この頃からすでに昭和感覚での歌合戦は時代に合わなくなっていた感は否めない。

到了90年代,從昭和走向平成,無論是年末的大賞還是紅白歌會都逐漸失去潮流的向心力,越來越多的音樂人不再追求名利。音樂家們開始紛紛婉拒紅白的邀請,以表明自己的立場。“歌謠”一詞在年輕人眼中近乎成為死語,取而代之的是J-POP。不可否認,充滿昭和氣息的紅白歌會已經落後于時代潮流了。

收視率再創新低,回顧紅白歌會興衰史

これからの紅白 どう生き殘っていくか

未來的紅白 該何去何從

紅白も手をこまねいていたわけではなく、海外のアーティストを中継で參加させるなどその時々でさまざまな手は打ってきた。今回は若者寄りにシフトしたというが視聴率の低迷を打開するには至らなかったようだ。

紅白歌會的策劃組并不是坐以待斃,也提供了很多創新方案,如邀請海外藝人通過轉播形式參加晚會。本屆更是将視角轉向了年輕一代,無論是出場的藝人還是選曲都更加符合年輕人的審美,但還是沒能沖破收視率低迷的局面。

收視率再創新低,回顧紅白歌會興衰史

1963(昭和38)年の第14回では平均視聴率81.4%をマークし8000萬人が観たと言われるほど隆盛を極めた紅白も、今は昔。看闆が大きいだけに変革も難しいのだろう。しかしそれでも、視聴スタイルが多様化する中でなお30%を越える視聴率をマークするのだからまだまだ「関心度の低い番組」というわけでもない。今後どのような工夫が見られるか。紅白がどう生き殘っていくのか見守りたい。

曾經的紅白歌會盛況空前,1963年(昭和38年)第14屆紅白歌會的平均收視率為81.4%,高達8000萬觀衆收看,不過這早已成為曆史。作為高國民性的老牌節目,革新的确會有困難。盡管如此,在視聽方式愈發多樣化的大環境下,紅白歌會的收視仍舊可以超過30%,絕不是一檔“毫無關注度”的節目。未來會有怎樣的創新呢,紅白該何去何從,讓我們拭目以待。

本内容為滬江日語原創翻譯,嚴禁轉載。

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